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対談

第6回 大学で磨いた言葉の感覚

2016.12.14

有馬 真喜子さん
(認定NPO法人国連ウィメン日本協会理事長)

有馬 真喜子 氏 略歴

広島県生まれ。1957年、津田塾大学英文学科卒業、同年朝日新聞社入社。記者として、横浜支局、本社学芸部などに勤務。68年、フジテレビと専属契約を結びニュースキャスターとして「奥様ニュース」などを担当。88年、(財)横浜市女性協会常務理事、横浜女性フォーラム館長。91年、同理事長。98年、国民生活センター会長。2004年、ユニフェム(現UN Women)日本国内委員会理事長になり、現在に至る。08年、公益財団法人消費者教育支援センター理事長になり、現在顧問。国連婦人の地位委員会日本代表(1986年~97年)、世界人権会議日本政府代表(93年)、第4回国連世界女性会議日本政府代表顧問(95年)。ほかに、数々の審議会の委員を務める。津田塾大学理事。法務省難民審査参与員。

萱野

本学のOGでいらっしゃる有馬さんは、ジャーナリストとして、またさまざまな公的機関での仕事を通して、数々の難しい社会的課題の解決にあたってこられました。キャリアの始まりは朝日新聞の記者からですが、女性記者がほとんどいなかった時代ですね。

有馬

朝日新聞社が正式に女性を採用したのは私が最初で、次の女性が採用されたのも4年あとのことです。社内だけでなく、取材先も男性ばかりですから、私はパンダ並みの珍しい存在。初任地の横浜支局時代には、地元の神奈川新聞から取材されたぐらいです。でも、待遇は男性と全く一緒で、サツ回り(警察担当)もやりました。いわゆる夜討ち朝駆け(夜遅く、また早朝に不意に取材先を訪ねること)の世界でしたが、あまり苦労とは思いませんでした。その後の東京本社学芸部時代は、お料理、ファッション、なんでも担当しましたよ。いまでも朝日新聞に「ひととき」という女性の投稿欄がありますが、私はその投稿者たちの暮らしを各地に訪ね歩く取材もしました。大きな時代の変化のなかで、ふつうに暮らしている女性たちが民主主義ってなんだろう、と真面目に考え、それを日々の暮らしのなかで実践していた。その素晴らしさ、すごさを学ばせていただき、こちらの世界も広がる思いでした。

萱野

1964年の東京オリンピックも記者として取材されたのですね。

有馬

はい。そのころには女性記者も3人になり、全員が女性選手村の取材を担当しました。ほかに、私はなぜか高飛び込みとマラソンも。オリンピックのマラソン取材と聞くとカッコイイと思うかもしれませんが、仕事というのは派手に見えても一つひとつの現場の積み重ねです。マラソンは甲州街道を走るコース。私たちの仕事は街道沿いの2階建ての家を探し、カメラ撮影用に2階を貸してください、とお願いすることから始まりました。

萱野

どれほど派手にみえる仕事でも、結局はそういった地道な積み重ねの上に成り立っているんですよね。その後、有馬さんはフジテレビと専属契約を結んでニュースキャスターとして活躍されます。新聞社からテレビに移って、一番印象に残っているお仕事は何ですか。

有馬

失敗したことですね。一番大きな失敗は1976年、生放送のニュース番組中に起きました。そのころ、中国の毛沢東主席の容体が悪いということで、亡くなられたときの特番の準備をスタッフと重ねていたのです。ところが、先に周恩来首相が突然亡くなられ、第一報が生放送直前に飛び込んできた。周恩来さん、と私は伝えているつもりでしたが、口から出てきたのは、それまで頭のなかにずっとあった毛沢東さんの名前でした。ディレクターが「違う、違う」と大慌てで合図している姿が目に入りましたが……。生放送は本当にこわいですね。結局、テレビの仕事は17年続けましたが、同じマスコミでも新聞社とは全く違いました。新聞記者は栄光も失敗も個人にかかりますが、テレビは何事もチームワーク。チームがなければ何も発信できませんし、その分、私は人にいっぱい迷惑をかけたけれど、チームで仕事をする楽しさも知ったと思います。

萱野

1986年からは国連婦人の地位委員会の日本代表になられますね。これもまた、大きな転身だと思いますが、どのようなきっかけがあったのですか。

有馬

1975年にメキシコシティで第1回世界女性会議が開かれたとき、フジテレビから取材に行かせてもらったのを皮切りに、第2回(80年、コペンハーゲン)、第3回(85年、ナイロビ)と毎回、世界女性会議の取材に出かけていましたので、外務省の方たちともよく行動を共にしていました。他国では委員会の代表は政府関係者が担うのですが、日本の場合は民間人が任命されることが多く、その流れで私に声がかかったようです。毎年、各国の代表がニューヨークに集まり、女性の権利分野での喫緊の課題について行動計画をつくる、というのが大きな仕事でした。

萱野

世界が取り組んでいくべき課題の解決の、その最初の部分を担われたわけですね。いろいろな国の方がいて、女性の地位や状況も国によってバラバラななかで、共通の価値や理念を見出し、行動計画をつくっていくというのは大変な作業だったと思います。

有馬

例えば、アメリカの女性たちは「男性は結婚しても、しなくてもMr.なのに、女性は未婚ならMiss. 結婚したらMrs.になるのはおかしい」と主張し、Ms.という言葉をつくりました。しかし、途上国の女性たちからすれば「何を寝言みたいなことを言っているの! 今日子どもに飲ませるミルクがあるかどうか、それが私たちの一番の女性問題だ」となるわけです。かみ合うはずもなく、激しい議論になりました。

萱野

そうした状況のなかで、共通の価値や目標を探っていかなくてはならない。何に一番苦労されましたか。

有馬

言葉、ですね。国連というのは、できるだけ満場一致を目指すので、いかにみんなが合意できる内容にするか、妥協できる文言を探っていく作業になります。 shall ではなく、shouldにすべきだ、といった一つひとつの文言にものすごく時間を費やす。でも、このあたりの言葉の感覚は、津田塾での勉強が役立ったと思いますよ。私は、わりと授業に真面目に出ていまして、英文法の勉強など好きでした。1年生のときからサマセット・モームなど読まされて、よくわからないなりにもいろいろ勉強させられたことで、言葉の感覚が少しずつ身に着いたのではないでしょうか。

萱野

それは本学の教員にとって、うれしいお言葉です。国連における合意形成のあり方も、非常に興味深くうかがいました。国連というのは強制力を持たないがゆえに合意が大切で、課題の解決においても、下から少しずつ合意を積み上げていき正当性をもたせていく。これからの時代、ますますこうした形での課題解決やルールづくりが重要になっていくのではないかと思います。


物事はゼロか100かではない

萱野

有馬さんは1986年から90年代にかけて、日本代表や日本政府代表として国際機関で仕事をされてきました。その間、世界が大きく転換するのを目の当たりにされたのではないでしょうか。

有馬

89年にベルリンの壁が崩壊します。それまではどんな問題であってもアメリカとソ連との対立に還元されていましたが、冷戦構造の崩壊で人権、環境、人口など、国連が取り組むべき地球規模の課題で世界会議が開かれるようになった。去年までロシア語で話していたベラルーシの代表が、次の年にはたどたどしい英語でスピーチを始めるなど、時代の変化を実感することができました。

萱野

それはとてもシンボリックなできごとですね。有馬さんは世界人権会議には日本政府代表として参加されました。政府代表となると、有馬さんの立場もこれまでと変わりますよね。

有馬

大きく変わりました。この問題に関して日本政府はこういう対応をとる、という制約にきっちり縛られました。もちろん準備段階で自分の意見は言い、議論しますが。

萱野

自分は賛成でも、政府代表としては反対しなくてはいけない、という状況もあるわけですね。

有馬

それは仕方がないことだと思います。実は93年の世界人権会議では、戦時下における女性に対する暴力が大きな問題になっていました。旧ユーゴスラビアの紛争下で女性に対する性暴力が深刻な問題となり、その流れで日本軍の慰安婦問題もクローズアップされたわけです。これを受けて、95年に日本政府主導で国民からの募金をもとにした「アジア女性基金」が設立されたわけですが、右からも左からも叩かれ、大変でしたね。でも、まずはできることから実行して誠意を表そう、それで足りなければ次の世代が上に積み上げてくださればいい。歴史はそうやってつくられていくものだ、と思って取り組みました。

萱野

何もしないと前に進めない。今の条件のもとで最大限できることをしよう、と考えられたのですね。

有馬

国連で学んだことです。物事はゼロか100かではなく、実際の社会ではいかに妥協点を探していくか、だと思うのです。今の段階ではここまでならできる、というところから始めないと。もちろん、原理原則を貫き、100%を求める立場の人がいても構いません。いろいろな立場で発言する人がいたほうがよいと思います。

萱野

物事を前進させるというのは、大変な労力を必要としますよね。本学の新しい総合政策学部では、社会が抱えるさまざまな課題の解決のために、そうした物事を前進させる力を女子学生たちに獲得してもらいたいと考えています。新学部で学びたいという女性たちに、メッセージをいただけますか。

有馬

やはり現場が大事です。たいていのことはインターネットでわかる時代ですが、感覚みたいなものは、自分がその場に立たないとわかりません。それに、仕事でもなんでも、現場でいろいろなことを体験したほうがおもしろい。それから、これからの女性のリーダーシップって何だろう、と考えたとき、私は共感する力ではないか、と思うのです。ネットの時代ではなおのことですね。

萱野

人工知能がいくら発達して、人間の仕事を代替しても、謝る仕事だけは絶対人間がやらないと納得されませんからね。

有馬

なるほど。私はいつもリーダーになる人間は、お礼状とおわび状を書けなければ、と言っているのですが、それに通じますね。

萱野

いろいろな考えや価値観をもった人たちをうまくとりまとめて合意を引き出していく、というのもリーダーシップの一つかと思いますが、そのときに言葉に対する感覚や感性が非常に大切になる、というお話もありました。言葉への感性はどのように身に着けられますか。

有馬

何でもいいから、本を読むこと。繰り返し読んだり、実際に言葉を使ったりすることでしょうね。ネットの言葉はいろいろつづめていますが、それはどうなのでしょう。人間の感じたものを表現する言葉って、もっと豊かであるはずです。

萱野

有馬

聴く力、ですね。この人は何を言おうとしているのか、理解しようと努力する力とも言えます。そこから物事は始まるのではないでしょうか。

萱野

課題解決といっても、その人がそもそも何を問題と感じているのか、何を求めているのか、という課題を発見できないと、解決はできませんからね。

有馬

横浜の女性フォーラムの館長をしていたとき、相談員の方たちから教わりました。「夫に殴られました」「人にだまされました」と相談にくる人なんて誰もいない、と。最初は何を言っているのかよくわからない。しかし、忍耐強く、注意深くお話を聴くうちに、実は暴力を振るわれていたとか、だまされていたといった話が出てくるそうです。

萱野

課題を発見するということも、たぶんコンピュータにはできない、人間にしかできない仕事でしょうね。

有馬

おっしゃる通りです。課題の発見だけではなく、解決の方法もマニュアル通りではなく、マニュアル以外の解決策を見つけてやろうじゃないか、という挑戦する気持ちをもつことも大事ですね。

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