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対談

第5回 機会があったら、素通りしてはいけない

2016.11.29

平野 みどりさん
(DPI(障害者インターナショナル)日本会議議長)

平野 みどり 氏 略歴

熊本市生まれ。1982年津田塾大学国際関係学科卒業。脊髄腫瘍摘出手術後の30歳より車椅子生活を始める。31歳で渡米、障害者自立生活運動を学び、帰国後の91年、障害者自立支援センター「ヒューマンネットワーク・熊本」を仲間と設立する。97年の補欠選挙で熊本県議会議員に当選し、5期(17年4か月)活動した。

大島

平野さんは2015年4月まで約17年間、熊本県議会議員を務められました。議員になるきっかけは何でしたか。

平野

1997年12月に県議会の補欠選挙があり、地元で市民運動をやっていた私に急きょ、声がかかったのです。一晩だけ考え、無所属の候補として出る決意をしました。女性で障害者でもある、マイノリティーの典型のような私の視点で変えていけるものがあると思ったからです。何しろ、熊本県議会は定数48で、今でも女性議員は3人だけ。私が当選したときも二人しかおらず、女性は私一人という時期が17年間のうち8年ほどありました。

大島

政治家になるという選択は普通、ハードルが高いと思うのですが、それを一晩で決断したとはすごいですね。

平野

義理の両親は大反対でしたが、教員の夫は人の選挙の応援をやっていたので、背中を押してくれました。社会的な活動に関わることにパートナーが協力してくれるような環境を、日ごろから作っておくことも大事ですね。

大島

議会というのは、どういう世界でしたか。

平野

とにかく私は少数派。入ってすぐ、「賛成の諸君の起立を求めます」という採決の方法に異議を唱えました。私は(下肢麻痺で)起立できない。だから「起立または挙手を求めます」に変えてほしいと訴えたのですが、その要求が通りません。次の本選挙で受かって、また要求してもダメ。ついに堪忍袋の緒が切れ、この状況を外に向けて発信したら、県民の皆さんから「税金を使うわけでもないのに、これを認めないのはおかしい。人権侵害だ」と共感してもらえました。議会も大慌てで、やっと認めたのです。

大島

議会がそこまで抵抗していた理由は何だったのでしょう。

平野

結局、粛々と続けてきた“しきたり”を変えたくなかったのだと思います。重鎮の議員からは「平野さん、あなた一人が気持ちを切り替えればよい話。もっと大局をみてください」と言われました。「ささいなこと」と思われたのですね。でも、「起立を求めます」では、「起立できない人」の存在を認めないことになってしまいます。議会にはこの先、子育て中の人、議員活動中に出産する人、障害をもった人など、多様な人々が入ってくる可能性がある。その都度、合理的な解決方法をみんなで考えていく必要があります。多様性を認める議会にする第一歩として、県民の皆さんの応援を受け私は妥協せずに闘いました。

大島

多様性こそが大局ですものね。“invisible minority”(目に見えない少数者)という言葉がありますが、存在や課題をまず“visible”にしていくことが大事です。

平野

議員になる決意をしたのも、私がたまたま障害をもったことが大きいのです。津田塾大学を出て、まずは熊本の生産設備メーカーに5年ほど勤めました。英語を使える仕事でしたが、男女雇用機会均等法ができる前のこと。同期の男性との待遇の違いに違和感を覚え「このままでいいのかな。もっと社会の一員としてパブリックな貢献がしたい」と思うようになりました。その後、英会話講師として働いていた30歳のとき、病気の手術で両下肢に障害が残ってしまいました。車椅子生活になり「ああ、人生、半分終わった」と感じたのですが、入院中「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」を知り、1年間アメリカで当事者運動を学ぶ機会を得ました。その経験から「残りの半分の人生をどう生きるか」「目の前に機会があったら素通りしてはいけない」と考えられるようになったのです。

大島

アメリカではどのような経験をされたのですか。

平野

ちょうど大統領選挙があり、障害者への差別を禁止する「障害をもつアメリカ人法」が制定された年(1990年)でしたので、私はこの法律がどのようにできたのか、関係者にインタビューして回りました。アメリカでは建物のほとんどがバリアフリーなので、障害をもつ人たちもあちこちに出かけ、当たり前に生活できる環境がありました。印象的だったのは、障害者たちが民主党、共和党、両方の陣営にロビー活動をしていたこと。政権がどちらになろうとも、法律を制定させるために戦略的に動いていたのです。アメリカの仲間からは常に“be political” 、つまり政治的に考え、動け、と言われました。障害者が“市民”として当り前に社会参加できる環境を日本でもつくらなければいけないと考え、帰国後すぐに仲間と障害者自立支援センター「ヒューマンネットワーク・熊本」を立ち上げました。

大島

アメリカでの体験を日本に持ち帰り、思いを実現させるとは、まるで津田梅子みたいですね。

平野

いえいえ。梅子さんはわずか6歳でアメリカに渡っていますよね。30歳過ぎた私が躊躇してはいけない、と思いました。議員生活の後半では「障害のある人もない人も共に生きる熊本づくり条例」の制定に力を注ぎましたが、私が議員提案として条例案を出すと反対される可能性があった。前面に出るのはあくまでも当事者団体の仲間たちにし、私は県と団体の双方を見ながらマッチングしていく役割を担いました。アメリカで学んだ戦略的な動き方です。

大島

興味深いお話ですね。私は北欧の国際政治を研究しているのですが、北欧の福祉もそのようにプラクティカル(現実的)に動く。「実」を取るにはどう動いたらいいかを考えるのは非常に重要なことで、政治家だけでなく、いろいろな立場の人にとって“be political”は大事ですね。

平野

もう一つ大事なのは、最初に話した多様性。これからは多様性に対するアンテナが低いと行政だけでなく、企業活動もやっていけなくなる時代です。企業にも多様な従業員、顧客がいるわけですから。

大島

多様性を前提とした広がりがあるかどうかが、その企業の評価や収益にもかかわってくるわけですね。新設する総合政策学部にも経営を学ぶコースができますが、いわゆる金儲けのためだけの経営ではなく、多様性を前提とした社会をつくっていく、そのための一つの歯車としての企業、といった発想で授業を組んでいます。

平野

それは、とても大事な発想です。これまでの社会の基準や仕組みは、すべて“元気な男性”を中心に考えられたものでしたが、それを転換していく大事な時期に来ていると思います。例えば熊本県の防災計画の策定委員会には、女性委員が1割も入っていなかった。そのことをずっと指摘してきたのですが、今年、大地震が起きてしまってから、女性や子ども、高齢者や障害者のことを考えていなかったことが露呈してしまいました。避難所では障害者が「みんな大変な思いをしているのだから、あなたたちに構っていられない」などと言われてしまい、一方で行政が指定した福祉避難所も機能しなかった。福祉避難所も必要ですが、一般の避難所をいかにインクルーシブ(包括的)なものにするのか、という発想が大事なのです。いろいろな委員会や市町村議会、また自治会活動などに、もっと女性やマイノリティーの人たちが関わっていけるよう啓発を進めるだけでなく、クォーター制の導入など仕組みを変える必要もあります。

大島

今はDPI(障害者インターナショナル)日本会議で議長をされていますが、そこでの課題やテーマはどのようなものですか。

平野

2016年4月に施行された国の「障害者差別解消法」がきちんと運用されるよう、モニタリングをすること。ひいては、2014年に日本も批准した国連障害者権利条約の完全履行への地道な取り組みを進めていくことです。また、ダスキンやJICAに協力しながらアジアやアフリカから障害者運動の将来のリーダーたちを日本に招き研修もおこなっています。

大島

「グローバル」と「ローカル」を合わせた「グローカル」という造語がありますが、まさに平野さんを表す言葉ですよね。

平野

本当に。ローカルに地元でやっている活動が直接グローバルな問題につながっていますし、グローバルで学んだことがローカルに生かせている。そういう体験をさせてもらっているので、私は幸せです。津田で学んだ“スピリット”も、少しは体現できていると思います。

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