INTERVIEW

現代社会が直面するさまざまな課題の解決を通じて、社会に貢献できる女性の育成を目指す総合政策学部。 新学部のキーワードである課題解決をめぐり、
総合政策学部長に就任予定である萱野稔人教授が各分野の女性リーダーたちと対談をします。

INTERVIEW 03

このままでいいのか 常に問いかけて 岩田 喜美枝さん(公益財団法人21世紀職業財団 会長)

岩田 喜美枝 氏 略歴
1971年 東京大学教養学部卒業。同年 労働省入省。厚生労働省雇用均等・児童家庭局長を最後に2003年退官。 同年 株式会社資生堂に入社。取締役執行役員、取締役常務を経て、2008年 代表取締役副社長に就任。2012年~2016年 同社顧問。
【現在の主な役職】
キリンホールディングス株式会社 社外取締役。日本航空株式会社 社外取締役。株式会社ストライプインターナショナル 社外取締役。公益財団法人21世紀職業財団 会長。津田塾大学 理事。公職としては内閣府男女共同参画会議議員、東京都監査委員、神奈川県男女共同参画会議会長等。
【主な出版物】『女性はもっと活躍できる』(共著)21世紀職業財団、2015年
萱野
岩田さんは1971年に労働省(現・厚生労働省)に入られ、32年間労働行政に携われました。労働省に進むきっかけは何でしたか。
岩田
いまでは想像できないでしょうが、当時は民間企業のほとんどが男子のみの募集。一部あった女子の採用も結婚退職が前提でした。私はずっと仕事を続けていきたかったので、それなら公務員と思ったわけですが、女子のキャリア採用を毎年おこなっていたのは労働省のみ。それもたった一人だけでした。運よく、その一人に選ばれましたが、入ってみると、なんのために女性を採用しているのだろう、とがっかりしましたね。いまは変わっていますが、当時は優先度の高い仕事はめったに女性に回ってこなかったのです。
萱野
それでもなぜ、労働省は毎年女性を採用していたのでしょう。
岩田
第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が日本の民主化のためには労働組合や女性の力をもっと強くしないと、と考えたのですね。それで1947年、アメリカの労働省とそっくりなものを日本にもつくり、婦人少年局というのもアメリカそのままに置いた。その局長は女性が望ましいということで、毎年一人、女性を採っていたわけです。しかし、同期の男性と比べると職域は限られ、20代、30代は仕事がおもしろいとは思えませんでした。客観的には期待されていなかったのに、私は「評価されたい」という思いは人一倍あったので、職場の常識に無理やり合わせて働いた。その最大の障害が長時間労働でした。
萱野
当時から長時間労働は問題だったのですね。実態はどのようなものでしたか。
岩田
一番大変なのは法律をつくるとき。私も2回、経験させてもらえました。最初のときは結婚して子どもはいない時期だったので、月曜日に1週間分の着替えを持って行くのです。役所で朝の2時、3時まで仕事をし、仮眠してまた働き、土曜日の夕方に帰宅する。入浴? しませんよ!1週間しません(笑)。それが6か月ぐらい続く。2回目は40歳前後。男女雇用機会均等法をつくったときですね(注:1985年制定)。このときは子どもが二人いたこともあり、午前3時、5時でも家に帰って朝ごはんをつくり、子どもを学校に送り出し、シャワーを浴び……。法律が国会審議される前日は仮眠すらできませんでした。
萱野
タフじゃないとできませんね。
岩田
いまでは国家公務員1種採用も各省庁女性の割合が3割を超えています。彼女たちが働き続け、本当に活躍できるように、本気で働き方改革を推し進める流れになってきました。働き方の改革は、女性の活躍を推進する取り組みと一体なのです。
萱野
尽力された男女雇用機会均等法の成立には、いろいろな抵抗があったそうですね。
岩田
国会に提出する前から、労使双方から反対されていました。雇用均等法制については、労働組合からは強制力のない法律はいらないと言われ、経営者側からは男女で就業実態に大きな差があるのに均等待遇などは無理だと言われました。労働基準法の女子保護規定については労働組合からは労働条件の改悪だと言われ、経営者側からは男女平等を言うなら女子保護規定は撤廃すべきだ、と。役所がその間を取り繕ってできた中途半端で不本意な法案でしたが、あれでなければ審議会も国会も通せませんでした。
萱野
それでもこの法律を成立させなくては、という機運がありましたよね。
岩田
後押しした要素が3つありました。1つは、国連を中心とした国際的な動き。1975年が国際婦人年で、翌年からの「国連婦人の10年」の間に各国とも均等法をつくったり、女子差別撤廃条約を批准したりしました。2つ目は働く女性たちが頑張ったということ。労働組合に婦人部が次々とでき労働運動として盛り上がりがありました。また、結婚退職せずに働き続けた女性たちのなかから男女で定年年齢や賃金体系が違うのはおかしい、と裁判を起こす動きが出てきていました。3つ目は労働省のなかで毎年採用されてきた女性たち――津田の卒業生でもいらっしゃる赤松良子さん(当時婦人少年局長)を筆頭に、自ら男女不平等を無念に感じてきた女性官僚たちが本気になったというのも大きいですね。
萱野
32年間行政の仕事に携わった後、岩田さんは56歳で資生堂の顧問に、後に取締役にもなられました。民間の企業に移られ、何が違いましたか。
岩田
一番は自由度です。役所の場合、何をやるべきか、何をやってはいけないか、すべて法律と予算に縛られています。ところが、資生堂は私を初代のCSR(コーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティー)部長として迎えてくれ、「CSRの戦略を1年でつくってください」と言われただけです。企業の社会的責任を考える、さまざまな部門と重なる仕事でしたが、要はやりたい人、やれる人がやって成果さえ出せばいいのだ、と知りました。その際、大事なのは「選択と集中」。お金も時間も人手も限られるなか、優先すべきところに資源を集中させ、必要に応じて切るべきところは切っていく。役所だと組織の改編や何かを削ることがとても大変で、「選択と集中」とはなかなかなりません。
萱野
役所にいたときには気づかなかったこともありましたか。
岩田
労働行政の分野で推進してきた仕事と子育ての両立支援策は、育児休業や短時間勤務など仕事を免除して子育ての時間をつくってあげる、というものでした。これらの期間は長ければ長いほど望ましいと考えていました。ところが、企業に入ってこれは間違いだと気づいた。仕事を免除する支援策では、キャリアは築けないのです。免除ではなく、残業のない働き方にすること。フレックス勤務や在宅勤務など、働き方をフレキシブルにすること。フルタイムでありながら子育てもしっかりできる両立支援策でなければいけないとわかったのです。
萱野
行政の世界から民間企業に移られ、企業が直面しているさまざまな課題も見てこられたと思います。とくに大きな課題はなんですか。
岩田
経営環境がどんどん変わってきていますので、従来通りにやっていると会社も淘汰されていきます。自分たちがつくっているモノやサービスがこのままでいいのか。いまのままのビジネスモデルでいいのか。常に問いかけて、必要な修正を加えたり、やったこともない新しいことを生み出したりできるか、が大切になってきます。

後編に続きます。